Virtual Religion

インターネット上で楽しく過ごすための宗教です。

将来的な宗教法人化を目指しています。

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Virtual Religionはこんな宗教です

加入・脱退は自由です

加入は、Twitterアカウント@vr_religion_jaをフォローするだけ。脱退はフォローを外すだけ。簡単です。経済的負担はありません。

インターネット時代に特化

インターネット上のサービスを使う上での精神的な幸福を追求します。現世での経済的な利益は保障しません。死後の世界の幸せも保障しません。

勧誘は禁止します

勧誘は禁止します。布教、すなわち、このWebサイトの紹介はしますが、Twitterアカウント@vr_religion_jaのフォローを直接は勧めません。おのおのの理性に基づいた主体的判断によって、加入を決めます。

信仰を大事にします

信仰を示すため、宗教的儀式を行います。祈りと冥想を行います。宗教的儀式は、教えをよりよく実践するためのテクニックとして有効です。

教義

信者はインターネット上で以下のようにふるまいます。

正義感は人を幸せにするために使います

誹謗・中傷しません。

たとえ、道徳的・法律的に責められるべき事象や人物であっても、誹謗・中傷しません。誹謗・中傷も、道徳的・法律的に責められるべき行為です。

誹謗・中傷は気持ちのよい行為です。特に、相手が道徳的・法律的に責められて当然な場合、誹謗・中傷は「正義のため」に許されると考えるかもしれません。しかし、正義のためであっても、誹謗・中傷を行いません。

あなたが誹謗・中傷をしたくなる相手の多くは、身近な人ではないでしょう。身近でない人が道徳的・法律的に責められるようなことをしたということをなぜ知ることができたのでしょうか。その情報が誰かの手を通じて伝わったからです。多くの人に情報が伝わった時点で、その人はすでに十分に責められています。あなたが罰を上乗せする必要はありません。法的な罰は別途行われます。

ともかく正義は悪である、というのが私が戦争体験から得た教訓でね、これは今も変わりませんね
保育器の中の大人[精神分析講義]
(伊丹十三・岸田秀)より

ネガティブな感情になった場合には、おいしいものを食べて、よく寝ます

ネガティブな感情になった場合、おいしいものを食べて、よく寝ます。おいしいものが食べられなかったり、よく寝ることが出来ない状態であれば、それをまず解決します。

インターネット上の発言が原因でネガティブな感情になった場合には、インターネットからしばらく離れます。現実の生活を重視します。

『ひもじい 寒い もお死にたい 不幸は この順番で 来ますのや』
じゃりン子チエ 5巻
(はるき悦巳)より

言葉遣いに気を遣います

正しい内容と正しい伝え方、両方がそろってはじめて相手に届く言葉となります。

例えば、以下のような言葉遣いやふるまいを避けます。

  • 「幼稚」「幼稚園児並み」「小学生並み」などの人格批判。そのような言葉を使うことによって、むしろ自らの幼稚さをさらすことになります。
  • 「毒舌」「毒吐き」という自称。人を傷つけることを平気で言うし、それを許してください、という主張です。
  • 「本質」。多くの文脈では、「私が言いたいこと」「私が大事だと思っていること」などで十分です。
  • 「マスゴミ」などの罵倒。「マスコミ」で十分です。むしろ、マスコミへの過剰な期待をさらすことになります。
  • 「マスコミが触れない」。いわゆる「悪魔の証明」です。「私はマスコミでは見たことがない」で十分ですし、あなたが知っている時点で十分マスに伝わっています。
  • 「論破」。議論は相手あってのものです。相手を「破」してしまうと、議論を通じて共通認識を深めることができません。議論を通じて優越感を感じることを目的としていると疑われます。
  • 「子供のため」。私は、子供たちによりよい環境を提供したいと考えます。しかし、ある事象が本当に「子供のため」になる論拠を明らかにしない限り、「子供のため」と言いません。「子供のため」という理由をつけると、反論を封じることができることを利用しません。
  • 「訴えます」。法的措置を執ることを予告しません。「訴えます」は一種の脅迫です。法的措置を執る場合には、事前予告なしに行います。
  • 「パクリ」。丸パクリは別として、文学や絵などの作品について、その成立を時系列順に把握することは大変困難です。また、同時発生的に同じような考えが発表されることもあります。「僕が知っている〜と似ている」で十分です。剽窃が疑われるのであれば、その事実関係を指摘するだけで十分です。
  • 「もし真実であれば」との保留をしつつの評論。真実であるかどうかある程度はっきりするまでは言及を避けます。
  • 「自戒をこめて」。単に自ら悔い改めればよく、何か他のことへの言及にこめる必要はありません。
  • 「通りすがり」とコメントの名前欄に書くこと。私は意見を言うけれども、通りすがりなので反論は聞きません、という主張です。
  • 「表現の自由」。表現の自由とは、表現を発表以前に検閲や規制されないことを指します。Twitterなどのツールがある今、表現の自由は基本担保されています。よって、この言葉は時代遅れです。表現したことについて批評を受けないことではありません。
  • 「最近の〜はこうだ、以前は〜だった」。最近と以前が指す範囲があいまいです。あいまいとなるのは、そもそも、データに基づかず、印象によって語っているからです。最近と以前を具体的な年に変えるか、ただ単に(最近発表された)〜が好き、で十分です。
  • 「因果応報」「自業自得」「自己責任」。「助けるつもりはないし、助けを受ける権利もない」と突き放すことばです。災難がふりかかった人に、わざわざ追い打ちをかける必要もありません。そもそも「ある行為をした人がその結果を受け入れるべき」という主張は凡庸なもので、新しい視点や情報をもたらしません。
  • 「常識」。「知っていて欲しいこと」「そうあるべきこと」を表す感想です。なにかを知らないのであれば、教えてあげればよいだけです。なにかを知らない人がいるということは、「常識」と呼ぶことそのものが不適切かもしれません。

他人が上記のような言葉づかいをする場合には、スルーし距離を保ちます。

何かを表現するために、強烈な言葉を使う必要はありません。あなたは、他の誰かの言葉で傷つけられたと感じ、その反撃のためにそのような言葉を使うのかもしれません。他人を攻撃することによって、あなたの傷は癒えません。

冒涜の言葉や、卑語を使うと、不愉快な情報を聞きたがらない人間に耳と目をふさぐ権利を与えてしまう。
ホーカス・ポーカス
(カート・ヴォネガット)より

感情表現は、前向きなものにします

自らの感情を表現する場合には、前向きな表現を用います。

例えば、AとBというふたつのものがあって、Bのほうが好きだとします。この場合、「Aのほうが嫌いだ」と書くのではなく、「Bのほうが好きだ」と書きます。

ネガティブな感情を伝えることを避けます。仮に伝える場合であっても、はっきりした言い方をします。例えば、「うらやましい」「好きじゃない」「気に入らない」のような言い方をします。自分自身の感情であることをかくして、みんながそう思うはずだ、というニュアンスを含む言葉を使いません。例えば、「けしからん」「低俗」「上から目線」「社会では通用しない」「いかがなものか」「許されるのか」などのような言い方をしません。

あなたがAが好き、他人がBが好きだとします。AとB、どちらが優れているわけではありません。自分の好きなものが他人の好きなものと違うことは自然です。あなたはただ、「Aが好きだ」と言うだけでよいのです。

どうしてお互いの欠点探して 傷つけ合ってばかりいるんだよ 百の罵声を あびせるよりも 好きなもん一つ 胸張って言える方が ずっとカッコいいだろ 何が嫌いかより 何が好きかで自分を語れよ!!!
ツギハギ漂流作家
(西公平)より

よくわからないことに対して、ネガティブな言及をしません

よくわからないことに対しては、褒めるかスルーします。どうしてもそのことに反論や批評をしたい場合には、その分野に関する基本的な知識を得てから発言します。基本的な知識を調べることそのものを楽しみ、もし楽しむことができないならば、反論や批評をしません。

「わからない」ということは、心をイライラさせます。よって、わからないことについてはネガティブな言及をしがちです。

世の中、よくわからないことだらけです。何かを正確に理解することは、多くの時間やお金などを消費します。わからないことが多いことは自然です。多くの時間やお金をかける価値がなければ、スルーしましょう。

ある発言に対して反論や批評をするときに、タイトルだけを読んだり、一部だけ読んで反論や批評をしません。文脈や背景を確認し、言葉づらにとらわれず、相手の考えていることや伝えたいことを汲み取るよう努力します。

自分が詳しい分野について、十分な知識を持たない人が的外れなことをいうことがあります。具体的で、ていねいかつ、礼儀ただしく指摘するか、ただスルーしましょう。抽象的な指摘にとどまったり、「にわか」などの言葉を使ったり、無礼な態度をとってしまうと、相手は学ぶ意欲を失ってしまいます。それは、的外れな発言をはびこらせてしまう一因です。

宗教や政治において、人々が持つ信仰や信念は、他人の信仰や信念を鵜呑みにしたものがほとんどだ。その他人も、ほかの誰かの信仰や信念を鵜呑みにしている。彼らの宗教や政治に対する意見には、1銭の価値もない。
The Autobiography of Mark Twain
(Mark Twain)より、末永匡訳

自らの誤りを認め、他人の誤りには寛容でいます

間違えたことを発言した場合、素直に誤りを認め、発言を撤回します。

他人が発言を撤回した場合、それを受け入れ、発言自体がそもそもなかったようにふるまいます。

過って改めざる、これを過ちという
論語
(孔子)より

他人を操作しません

アドバイスは避けます。アドバイスは、他人の行動や考え方を自分が望む方向に変えるために行われ、とても気持ちのいい行為です。議論は、「自分が学ぶこと」「自分自身の考え方を変えること」を目的とします。議論相手の行動や考え方を変えることを目的としません。

他人の行動や考え方を変えたければ、文章で諭すのではなく、その人の人生に直接関わる行動をします。

どうしてもアドバイスがしたい場合には、アドバイスをまとめたWebサイトを作ります。アドバイスを体系的に編集してWebサイトにまとめることは、自分自身が持つ知識を体系化するのにも役立ちます。また、そのWebサイトを見た人すべてが知識を得ることができます。

愚者は教えたがり、賢者は学びたがる(ロシアの諺)

自らの発言の責任を取ります

他の人と区別できるなんらかのアカウントを使って継続的に発言します。実名である必要はありません。 誤った発言をした際には、恥をかき、信用を失うことによって責任を取ります。

実名を求めてくる人はスルーします。一貫して使っているアカウントで過去に行われた発言から、人となりはわかります。

自らの意見を発信するときには、「【私は】こう思う」としっかり主張します。他人の意見を投稿する際は、「【ある人は】こう思っている」と誰の意見なのかを具体的に記します。

意見を投稿する際、根拠なく「世間」「社会」「みんな」などの大きな集団を主語としません。それは、責任逃れです。あなたが自ら考えた意見は、それだけですばらしいものであり、同じ意見を持つ人の数に頼る必要はありません。

「しかし、お前の、女道楽もこのへんでよすんだね。これ以上は、世間が、ゆるさないからな」
世間とは、いったい、何の事でしょう。人間の複数でしょうか。どこに、その世間というものの実体があるのでしょう。けれども、何しろ、強く、きびしく、こわいもの、とばかり思ってこれまで生きて来たのですが、しかし、堀木にそう言われて、ふと、
「世間というのは、君じゃないか」
という言葉が、舌の先まで出かかって、堀木を怒らせるのがイヤで、ひっこめました。
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?)
 汝は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣、古狸性、妖婆性を知れ! などと、さまざまの言葉が胸中に去来したのですが、自分は、ただ顔の汗をハンケチで拭いて、
「冷汗、冷汗」
と言って笑っただけでした。
けれども、その時以来、自分は、(世間とは個人じゃないか)という、思想めいたものを持つようになったのです。
人間失格
(太宰治)より

論理を大事にし、感情を大事にします

論理における誤りは修正します。

論理における誤りを全て修正したとします。それでも意見の相違は起こりえます。前提条件が異なるからです。議論に参加するおのおのの嗜好や感情は異なります。よって、論理が正しくとも、認める前提条件が違うため、結論は異なります。おのおのの嗜好や感情の違いを尊重します。

議論をする場合には、数値などの具体的なデータに基づきます。数値を伴わない個人的な印象に基づいた議論は、気の合う仲間と顔を合わせて話すことにとどめます。「多い」とか「ほとんど」のような量についての言葉を使う場合には、かならず具体的な数値を用います。

数値に基づいた議論をするためには、多くのデータを集める必要があります。それは、とても大変な作業です。その作業そのものに楽しみを見いだすことができない場合は、すぐに議論をやめます、楽しくないことはしなくてよいのです。

自分の身の周りで何度か見かけたことを一般化しません。生物は、少ない観測数から学習を行います。身に及ぶ危険を避けることができるからです。それは自然なことですが、その考えを身近でない他人に主張しません。例えば、鳥が飛んでいるのを何回か見たとします。「鳥は全て飛ぶものだ」と考えてしまうのが自然です。しかし、そのことを他人には伝えません。代わりに、「飛んでいる鳥を何回か見た」と伝えます。ペンギンは鳥ですが、飛ぶことができません。

他人に迷惑をかけない限り、自分が楽しいことを追求します。他人がされて嫌と感じる行為は、なるべくやらないようにします。たとえ、他人が嫌がっていることが、理屈の上では間違っていたとしても、です。その他人が身近でかつ大事な人であれば、寄り添います。その他人が身近な人でも、大事な人でなければ、なるべく距離を取るようにします。

データを手に入れる前に理論を立てるのは致命的な過ちだ。事実に理論を合わせるのではなく、理論と合うように事実をねじ曲げてしまう、無意識にね。
シャーロック・ホームズの冒険 - A Scandal in Bohemia
(コナン・ドイル)の原文より末永匡訳

まず自分が幸せになります

人生は短いです。今楽しいことや、将来的に楽しくなることをやります。

社会よりも、自分自身と自分のごく身近な人間を大事にします。そのために、社会問題よりも、自分自身と自分のごく身近な人間の問題を解決します。

まず、あなた自身が幸せになります。あなたが幸せをつかむ前に、他人の幸せを願う必要はありません。他人が不幸になったからといって、あなたが幸せになるわけではありません。

スラックティビズムと呼ばれるような、TwitterやFacebookでニュース記事にコメントをつけるだけのお手軽な評論活動に時間を費やしません。

気にくわない人、いませんか。街中でゴミをポイ捨てしている人だって、われわれ社会の一員です。そんな人たちも含めて、社会全体を幸せにし、利害調整を行うことは大変難しいことです。あなた自身が幸せになれないのに、社会問題を解決できるはずがありません。

人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣にちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。
『草枕』
(夏目漱石)冒頭より

宗教的儀式

声を出しながら行う全身運動で、ずっとやっていると自分自身がおかしみを感じるような運動を、毎日5分間無心で続けます。

もしそのような運動が思いつかなければ、「びっくりするほどユートピア」を推薦します。

プロジェクト発起人について

プロジェクト発起人の顔写真

末永匡と申します。 Twitter: @tasukuchan / Facebook: gunyarakun

プロジェクトへの参加について

当ウェブサイトはGitHubを用いて管理されています。

教義案などにご意見ご要望があれば、pull requestで具体的に修正いただけるか、issuesに報告いただけるか、Twitterの@vr_religion_jaまでご連絡ください。提案を反映することや返信は約束しません。

参考・推奨文献集

Q: 宗教って何?
A: 宗教とは、信念の代わりに用いられるもので、流行っているものさ。
『ドリアン・グレイの肖像』 17章
(ワイルド・仁木めぐみ)の原文より末永匡訳